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Session 2

日々の暮らしを支えるインフラストラクチャーにケアとメンテナンスを組み込む方法論

登壇者

  • 難波 美芸

    鹿児島大学総合科学域総合教育学系総合教育機構グローバルセンター講師

  • 山崎 篤史

    竹中工務店設計部建築家

  • 古川 理沙

    私立新留小学校設立準備財団 共同代表

  • 増井 尊久(モデレーター)

    株式会社リ・パブリック シニアディレクター

度重なる豪雨や地震、コロナ禍など、これまでの想定を超える事態が頻発する中で、真にレジリエントなインフラとはどのようなものか。また、その維持管理に当事者が関わる「余白」はあるのか。 本セッションでは、「流れ橋」「建築」「学校」といったハードからソフトに至る多様な事例を通じ、インフラに対する当事者の「参加」のあり方と、そこで問われる「責任」について議論しました。

崩壊 (Breakdown) を前提とした「ケア」への転換

近代以降、私たちは道路や橋などのインフラを「堅牢で永続的なもの」と捉えがちです。これに対し、モデレーターの増井尊久氏​(株式会社リ・パブリック)​は、アーカイブの人類学者であるシャノン・マターンの「インフラとは、常に崩壊し続けているものである」という定義を議論の始発点として設定しました。これまでの社会は「イノベーション(≒技術革新)」を重視してきましたが、これからは、崩れゆく対象を手入れし、その潜在能力を引き出し続ける「メンテナンス」へとパラダイムを移行させる必要があります。また、増井氏は、メンテナンスを単なる「修繕コスト」として忌避するのではなく、対象の価値を引き出す「ケア」として再定義することが肝要になるという視点を提示しました。崩壊するからこそ手をかける、その「ケア」のプロセスこそが、持続可能な社会基盤の核心となります。

ラオス「流れ橋」の事例:責任とは「応答する能力」である

続いて難波美芸氏​(鹿児島大学)氏(鹿児島大学)は、ラオスの「流れ橋」を事例に挙げました。この橋は、川が増水すると流失することを前提に設計されています。自然の力に抗うのではなく、流されてはまた架け直す。このサイクルは、破壊と創造が不可分である「社会・生態的レジリエンス」を体現しています。難波氏は、この事例を通して「責任」の概念を再考しています。責任とは、他者から課される義務(Responsibility/Accountability)ではなく、変化に対して自ら反応し行動する「応答可能性(Response-ability)」であると定義しました。リスクやメンテナンスを専門家に「外部化」せず、使い手が自ら作り、維持管理を行う。そうしたシステムから外部性を排した営みの中にこそ、制度に過度に依存しない本質的な持続可能性が見出せるのです。

難波 美芸氏

「経年美化」の設計:愛着が支える建築の寿命

建築の寿命は何によって決まるのでしょうか。山崎篤史氏​(竹中工務店)​は、法的耐用年数ではなく「人々がいかに愛着を持てるか」こそが、実質的な寿命を決定づけると強調します。山崎氏が手がけた大阪・関西万博の「森になる建築」では、3Dプリントされた生分解性樹脂と種を漉き込んだ和紙を用い、役割を終えると朽ちて森へ帰る「建築の死」を計画しました。また、既存建物の改修事例では、不要な床を削る「減築」と木造による「増築」を組み合わせ、廃棄物とCO2の大幅な削減を実現しています。これらに共通するのは、時間の経過と共に価値が増す「経年美化」の視点です。建築や維持管理のプロセスに「人の手」が介在できるように設計することで、建物は地域の一部となり、次世代へ継承されるべき「愛着」が醸成されます。

山崎 篤史氏

地域を再生する「学びのインフラストラクチャー」

古川理沙氏​(​私立新留小学校設立準備財団)​は、18年前に廃校となった小学校を再興する「新留小学校」のプロジェクトを通じ、学校を地域の「社会関係」や「文化」といった多様な資本のハブと定義しました。学校の消滅は、こうした資本の消失と、ひいては地域固有の生態系の崩壊を招きますが、豊かな学びの場を再生することで、地域全体の再活性化が可能になります。現代教育において学びが生活から切り離され「外部化」している現状に対し、古川氏は「食と言葉」を軸に、子どもが生活者として関わる「内部化」を重視しています。例えば、遠足費用を捻出するために子どもたちが自らレストランを運営する活動は、自身の暮らしを自律的に組み立てる訓練となります。学校は、地域に根ざした知恵を身体の中にアーカイブし、ケアとメンテナンスの精神を次世代に繋ぐための「生きたインフラ」として機能するといえるのではないでしょうか。

古川 理沙氏

ディスカッション:参加と責任を再設計する方法論

討議では、インフラや建築に対する「参加」と「責任」のバランスが議論の焦点となりました。難波氏は、当事者がシステムの「内部」から自ら作り・使う可能性を設計することで、責任は一部の人が負う法的義務や説明責任ではなく、当事者間で分散される応答の倫理として受容されると指摘します。山崎氏は、現代の過剰な安全基準に対し、設計者がある程度リスクを引き受ける覚悟を持つことで、経年変化を受け入れるデザインの基準=クライテリアを再構築する重要性を語りました。また古川氏は、大人が子どもたちの安全のためと言って設定している基準は、大人たち自身の責任を回避するための論理に過ぎず、かえって子どもたちが自らリスクを回避する「生きる力」を身につける機会を奪っていると批判しています。結論として、長い時間軸の中で、世代を超えて人々が関与し続けられる「余白(関わりしろ)」を設計することが、今後の重要課題として共有されました。

セッションを振り返って

執筆者

増井尊久

株式会社リ・パブリック

世界の「ままならなさ」を受け止め、受け入れる「責任」と向き合う

本セッション全体を貫底していたのは、効率性や安全性を求めてあらゆる機能を「外部化」してきた近代モデルの限界と、それに対する「内部化(当事者性の回復)」への転換です。生態学者ジョン・ハートが指摘するように、近代の発展を支えた科学的アプローチは、複雑系におけるフィードバックループや、特定の状況下に潜む特殊性(particularities)、予測不可能性(contingencies)をあえて「ないもの」と仮定することで、普遍的なルール化やパターン化を可能にしてきました。言い換えれば、現代社会における「安全性」とは、世界の「ままならなさ」を外部へ追いやった上に成り立つ虚構だということができます。この観点に立つと、難波さんが提示した「共生する他者への応答可能性」としての責任は、科学が前提として排除してきた「外部性」を、再び内部へと取り込む試みと言えます。それは、近代の虚構が崩れ去った後の世界 ―環境哲学者の篠原雅武が言うところの「人間以後」の世界― における、私たちの倫理的な存在様態を示しているのではないでしょうか。山崎さんによる住まい手・働き手の参加を前提とした建築の「経年美化」や、古川さんの子どもたちが自らの生活を自律的に組み立てる力を育む学びの環境構築 – これらの取り組みは、まさに「応答可能性としての責任」を各領域で志向する、極めて示唆に富む実践例だったと感じます。

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私立 新留小学校設立準備財団 公式Note

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篠原雅武(2020)『「人間以後」の哲学:人新世を生きる』講談社

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John Harte (2002), Toward a Synthesis of the Newtonian and Darwinian Worldviews, Physics Today 55(10):29-35, DOI:10.1063/1.1522164