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Session 3

万物に宿る精神性との感応:サーキュラーデザインにおける関係的実践

登壇者

  • 赤間 陽子

    RMIT大学スクール・オブ・デザイン 准教授、Designing Entangled Social Innovation in Asia-Pacific 共同リード

  • 川地 真史

    一般社団法人Deep Care Lab代表理事、公共とデザイン共同代表

  • Kok Yoong Lim

    RMIT大学ベトナム校スクール・オブ・コミュニケーション&デザイン准教授

サーキュラーデザインにおいて、「精神性(Spilituality)」は避けられる傾向がありますが、なぜ私たちは精神性に関わろうとしないのでしょうか?このセッションは、赤間陽子氏(RMIT大学)による効率性や収益性のみを重視する実践に対するこんな問いかけから始まりました。アジアや日本における精神性、宗教性を見つめ直すことの可能性はセッション1の呪術や妖怪などの話でも取り上げられましたが、このセッションではその概念をより具現化することが目指されました。

供養と循環の実践

川地真史氏(一般社団法人Deep Care Lab、公共とデザイン)は、フィンランド滞在中の体験からケアを「受け取る」ことの重要性に目覚め、浄土宗の「往相還相」という考え方を現代の実践に応用しています。海のプロジェクトでは、ガンガゼウニの殻を水切り石や団子にして海に返す「供養の遊び」を実験し、物質循環と精神的循環の両立を試みています。大阪の應典院では、物・生き物・AIロボットaiboの供養をテーマにワークショップを実施。住職による魂抜きの儀式を通じて、参加者が物との関係を断ち切り新たな可能性を見出す体験を提供しました。

川地 真史氏

川地 真史氏

メタモダニズムと精神的循環経済

Kok Yoong Lim氏(RMIT大学ベトナム校)は、現代を複数の危機が絡み合う「ポリクライシス」の時代と位置づけ、精神性が根源的な危機感を癒すツールとなると主張しました。物質循環だけの「循環型経済」はグリーンウォッシュに陥る危険性を指摘し、真に必要なのは意味と責任の「精神的なループ」だと述べました。ベトナムのスマートシティ研究では、テクノロジーを自己反省のツールとして再定義し、ユーザーを「イグジスター(存在者)」と捉え直すことで、デジタルデザインに精神性を組み込む新しい枠組みを示しました。

身体的実践と「こころ」の概念

セッションの後半では、会場にいる参加者全員が「写経」「座禅」「歩行禅」のいずれかを体験する時間が取られました。この体験を通して赤間氏は、精神性とは身体を通じて体験することが重要であることを強調しました。彼女が研究としても取り上げている「こころ」という概念から心・身体・感情・魂の不可分性を示し、「ko-ontology」という共存在論的な考え方が示されました。さらに、精神性を宗教的な意味に限定して解釈してしまうと本質を見失う可能性があることに言及しました。日常生活における潮の満ち引きのような変化のなかで、精神性に心を向ける時間のオンオフを切り替えることが物質性も身体性も放棄できない実践のなかで重要なのではないかと話しました。

ディスカッション

川地氏の海のプロジェクトやaibo供養の事例に対し、Lim氏からは物質循環だけでなく精神的循環の重要性が共有されました。デジタルアフターライフや死者のAI化という現代的問題については、死者をAI化すると関係が固定化され創造的な余白が失われる危険性が指摘されました。川地氏は、明示的に区切りをつけることで新たな関係が動き出すという供養の役割を強調し、これは若林氏の「死ぬことの大切さ」という議論とも共鳴すると述べました。
Lim氏の提案に対し、川地氏からスマートシティにおける精神的レイヤーの位置づけについて質問がありました。Lim氏は、テクノロジーを精神性の敵とせず自己反省のツールとして再定義することを提案。ベトナムでは精神文化が生活に深く根付いており、均質なスマートシティではなく各都市の独自性を活かした「精神的なテクノロジー」を含むモデルを開発する可能性があると話しました。循環経済において、物質性と精神性を分離せず、供養やケア、テクノロジーとの新しい関係性を通じて、意味と責任の循環を取り戻すことが重要であると示されました。

セッションを振り返って

執筆者

岡本晋

一般社団法人monlon

私にとってこのセッションは、「私はなぜ今ここにいるのか?」という問いを自分自身に投げかける内省的な時間となりました。これは、前半の活動紹介だけでなく、後半で写経、座禅、歩行禅を体験してみる中で感じられたことです。仕事や日常的な悩み事などを出発点に、様々な関係性の中で自分自身が位置付けられていることを意識し、なぜいまここにいるのかを一人一人が内省するというゆったりとした時間が流れていました。
ディスカッションの中でも触れられていたように、精神性は宗教的な意味合いを超えて、日常の中の「間性」的な状態として捉えることができます。このことを私がフィールドワークの中で特に感じたのが、Day2で訪れた長浜・木之本の「いも観音様」のエピソードです。はじめは単一の宗教・宗派の仏像としてつくられた観音像は、戦が起こるたびに地域住民が土の中に隠し、戦が終われば掘り起こすという行為を繰り返してきました。次第にこの観音像は「いも観音」と名付けられ、宗教や宗派に関係なく地域を見守る存在となっていきました。現代では、その存在を愛するネットワークが宗教関係者や地域出身者以外にも広がり、彼らからの支援金やケアの営みによって観音様やお堂が愛され続けています。この例から分かるように、日本という土地における精神性は、先の見えない時代における「願い」や日常的な「習慣」のなかで、宗教的な意味合いを超えて存在し、それは世代や時間を超える存在です。私たちの生活の中にも自覚的か無自覚的かにかかわらずこのような精神性をみつけることができるのではないでしょうか。
私は登壇者の川地氏とともに應典院でワークショップを開催したことがありますが、そこでも「祖先」というテーマで同様の議論が行われました。家族や仕事、様々な関係性の中で、参加者それぞれが「祖先」を位置付けることは、決して宗教的な意味に限定されたものではありません。また、セッションの中では登場していない公共とデザインの取り組みのなかでも、「産む」「死ぬ」「老い」といったテーマのなかで、日常生活の中でのタブー視されがちな概念を公共として語る取り組みが行われています。一見敬遠してしまいがちな精神性の話題を、すでにともにある存在として受け入れ、生活や仕事にも組み込んでいけるということが、このセッションを通じた大きな学びの一つといえそうです。

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